愛知県知多半島に位置する常滑は、日本遺産にも認定された「日本六古窯(ろっこよう)※」のひとつ。なぜ、一大産地と呼ばれるまでに、やきものが盛んになったのでしょうか。それには、知多半島の風土に育まれた「土」「地形」「立地」が関わっています。
常滑における窯業(ようぎょう)の始まりは、平安時代末期にあたる12世紀初め頃。
この辺りには、やきものづくりに適した土が広範囲に分布し、窯を設けやすい緩やかな丘陵地帯地が広がっています。
また、常滑は伊勢湾に面していることから、水運にも大いに恵まれました。こうして、質の高いやきものが盛んにつくられ、港から船で日本各地へと運ばれていったのです。
※日本六古窯…中世から現在までやきもの生産が続く、6つの産地(越前・瀬戸・常滑・信楽・丹波・備前)の総称
常滑の土は、低温でも焼き締まり、焼くと水を通しにくくなる特性があります。これを生かし、まずは茶碗類の生産から始まり、やがて甕(かめ)などの大物づくりが広まりました。大甕の用途は、藍染、醸造、埋葬などさまざま。これまで全国の遺跡から発掘された常滑焼は24,000点以上あり、その多くが、甕・壺・鉢といった大物です。発掘調査の結果からは、時の権力者たちが活用し、当時の人口密集地へ拡がっていったことが伺えます。
そして、常滑焼といえば、忘れてはならないのが急須。この地で急須づくりが始まったのは江戸時代後期といわれています。常滑特有の土に、精巧なパーツを組み合わせる高い技術が融合し、やがて「日本一」とも称される常滑の急須が生まれました。土質により、お茶を淹れるとまろやかな味わいになるのも、広く愛される理由です。
甕や茶器にとどまらず、常滑焼は、時代のさまざまな場面で私たちの暮らしを支えてきました。例えば、下水道の整備や近代建築の建設が始まった明治以降は、急速に需要が拡大した土管やタイルなどを大量に生産。名建築・帝国ホテルに使われた「黄色い煉瓦」を製作する技術は、当時の日本において常滑にしかなく、その製造は常滑市樽水に設置された直営工場「帝国ホテル煉瓦製作所」で行われました。戦後になると、公衆衛生の観念が高まり、トイレや内装タイルの生産も増加。また、日常生活にも余裕が生まれ、家庭用の園芸鉢や急須などの生産も盛んになりました。最近では急須=日本茶の概念を覆す、コーヒー急須などの新しい商品も誕生しています。このように、街や暮らしを支える常滑焼は、あなたの周りの意外なところで活躍しているかもしれません。
お茶を淹れるための道具として、日本人に古くからなじみのある急須。
江戸時代から現代に至るまで、さまざまな技法で作れらてきた常滑の急須の魅力をご紹介いたします。
私たちの暮らしに寄り添い、大切な1ページを彩る常滑焼。
家族との団欒・友人と過ごす休日・こだわりの趣味の時間まで、今日もあなたのすぐそばで活躍する常滑焼をコラムでご紹介いたします。
7月13日(土)より開催 企画展「常滑の輸出陶器 朱泥龍巻の世界」のお知らせ
「常滑焼とともに暮らす。」サイトを公開いたしました